生まれたときの記憶
ある人っていないですよね。
『産道を通る時さぁ、狭くて暗くてあれだけは大変でね…』
とか聞いたことない。
で、名前を親につけてもらって
だい、だいっていうもんだから、
いつからか、
あ、おれはダイって名前なんだ。
おれはダイだ。
となってくるんですね。そんで、
いつの間にか、自我意識が生まれた。
そしたら、死にたくないって意識も芽生えるんだね。
縁起悪いから、そんなこと口にするな、という風潮もあるから、
よけい世間では考える機会がないんだな。
でも、避けては通れないものとして、
ぼくらの生きる道に横たわってるもの。
それがこの死という現象だ。
死ぬことが前提として生まれてきたのに、
死について考えないのは、おかしいよね。
でも、ものを考える時に役立つのは、逆の現象から考えていくとよかったりする。
生まれたときの記憶がないように
死ぬ瞬間も記憶がないはず。
夜眠る時もいつ寝たか記憶に残らないのと似ている。
いつの間にか生まれ、いつの間にか死んでいくのだ。
自分のチカラで生まれたわけじゃないんだから、
自分のチカラで死ぬわけじゃない。
人間の意識では捉えきれない
大きな生命のチカラの働きによって
この身体は生きていられるので
死にたくないと思っても死ぬときは死んでしまうもの。
ようするに、死を恐がる必要はないんだと言いたいんだけど、うまく表現できてない気がする。
浄土真宗だと
なむあみだぶつ
っていうのは、
ナムってのは、おまかせ しますって意味。
アミダさまにおまかせしますって意味で、
生死のことは、自分じゃどうにもならんから、
すべてアミダさまにおまかせしますって意味なんですよね。
それで、朝目覚めた。
朝日がまぶしい。
今日も生きてる。
やーありがたいってことで
救われるってしくみ。
これがなむあみだぶつの唱える意味ですね。
いつの間にかお経の解説になっちゃいました。
おやすみなさい。